C4P/C4Qについて思ったことを書いた。この論自体に自分がとても興味をそそられていて、自分なりのC4P/C4Qを作り上げたいからです。なので著者の胸を借りるつもりで書いている。
C4P=Create-for-Personality、C4Q=Create-for-Qualityのこと、詳しくは↓を読んでほしい。
Ryo Arimura氏のThe Blue Envelopeを読んだ。現在12編ある。C4P/C4Qという論自体を自分は支持しつつ、社会的な関わりや関係性のあり方について視点が欠けていると感じた。C4Qがなぜこれまで支持されているのかについて説明不足というか、やや単純化しているように思える。まずC4Qが現状支持されている(そしてC4Pが足りないように見える)のは、クオリティがパーソナリティから目をそらさせる手段としても機能しているからではないか。これはマイノリティが能力主義に巻き込まれるのと似ている。つまり、内的なパーソナリティを安心して発現できるような心理的安全性が、社会的にも、個人関係の中でも、十分に確保されていないのだと思う。
パーソナリティとアイデンティティは理屈のうえでは区別されるべきだと思うが、実際にはしばしば重なり合う。創作者本人はC4P的な意味での「選択や構成の手つき(パーソナリティ)」を表現しているつもりでも、それが外部からは「属性(アイデンティティの構成要素)」として読まれたり、そもそも本人の中でも両者の境界が曖昧であることもありうる。そして、C4Pという実践自体が、創作物の差異を通じてパーソナリティに触れようとする以上、その説明と読み取りに揺らぎが生じるのは避けられない。
というか、自分はこの前提があるからサウンドシェアをやっているのだと思っていた。「創作物を介したコミュニケーションに集中する」という共通の目的を持った集団の中でなら、「相手そのもの」ではなく、その人の選択や構成、表現といったパーソナリティ、つまりC4P的に言えば、その人が何をどう選び、どう作ったかという固有の手つき、に注目することができるのではないか。受け手側の偏見や誤読がそのまま発表者に返ってしまう(社会的属性に不当に回収される、など)リスクを極力減らし、あくまで自身の価値観を通して、自己と他者の違いに集中できる場になる。行為や意図を手がかりに互いを理解しようとする関係性が生まれるのではないか、と思う。実際に参加したことはないので、違うのかもしれないけれど。
もっと書きたいことはあるけど、まだ全然まとまらないというか、ちゃんと読めている自身もないな。文章って難しいね。感想あったり批判あったりしたら遠慮なくください。